映画『愛し合ってるかい?』を観てきました。
忌野清志郎の音楽や生き方を、残された映像や関係者の言葉を通してたどっていく映画です。
10代の頃から私にとって彼はどこか特別な、でも心のすぐ近くにいてくれた存在でした。
だからこの記事では、親しみと最大の敬意を込めて、いつものように「清志郎」と書きますね。
今回は、映画を通して私が感じたことや、そこから考えた「表現」について書いてみたいと思います。
清志郎が見ていた、日常の世界
映画を観ながら、私が特に惹かれたのは、清志郎が見ている世界でした。
とても日常的です。
その眼差しが、とても優しく、そしてダイレクトに伝わってきます。
日常を歪めず、彼の言葉でありのままに捉える。
でも、ただ「ありのまま」を写しているだけではない。
そこに清志郎自身の視点があるから、歌になり、言葉になり、表現になっていく。
そのことが、とても印象に残りました。
そして、そんな清志郎の表現を観ていると、
「表現の始まりは、もっとシンプルなものでいいのかもしれない」と感じました。
自分の中に生まれた小さな衝動。
それを素直に拾ってみる。
そこから表現が始まるのかもしれません。
10代の自分が、スクリーンの中にいた
映画の中に、クリスマス恒例だったRCサクセションの日本武道館ライブの映像が出てきました。
実は10代の頃、RCサクセションのライブを日本武道館で何度か観に行ったことがあります。
だから、映像が出てきたときは驚きました。
「あの場所に、私はいた」
そう思った瞬間、当時の会場の空気や、自分がそこで感じていたものが、一気によみがえってきました。
10代だった自分。
そして、あれから何十年も経って、いろんなことを潜り抜けてきた今の自分。
同じ映像を見ているのに、そこには二つの時間が重なっていました。
過去の記憶を思い出しているはずなのに、その記憶は「今」の自分の中で起きている。
なんとも不思議な体験でした。
清志郎の姿を見ていたはずなのに、そこに昔の自分まで現れてきたような感覚。
そして、清志郎自身も、あの時には、こんなに早く死を迎えることになるとは思っていなかったのだろうと思いました。
だからこそ、今その映像を見ると、そこにある「生」をより強く感じます。
「自分が感じたもの」を表現する
清志郎の表現を観ていて、
「そのとき自分が感じたものを、今の感覚で素直に表現する。」
それでいいのかもしれない、と思いました。
誰かにどう評価されるか。
これは意味があるのか。
ちゃんとした作品になっているのか。
そういうことを考える前に、自分の中で何かが動いたなら、まずそれを掴んでみる。
もちろん、その後には考えたり、選んだり、形を整えたりすることも必要です。
でも、始まりのところまで最初から整えすぎてしまったら、自分にしかないものを見落としてしまうかもしれません。
誰もが、自分だけの「見え方」を持っている
同じものを見ても、人によって見え方は違います。
同じ出来事を経験しても、心に残るものは違う。
何気ないものに惹かれる人もいれば、誰も気に留めないものに引っかかる人もいる。
その違いの中に、その人だけの表現の種があるのではないでしょうか。
自分にはこう見えた。
自分はこう感じた。
その自分の見え方を、自分なりの方法で形にしてみる。
それも表現なのだと思います。
清志郎の表現を観て、私は改めて、自分の感覚を出発点にすることの大切さを感じました。
時間を越えて残るもの
清志郎は、もうこの世にはいません。
でも、娘さんや若い人たち、かつて一緒に音楽を作った人たちにも、清志郎のスピリッツが受け継がれていることが映画から伝わってきました。
私自身も、10代の頃に武道館で受け取ったものを、何十年も経った今、映画を通してもう一度受け取りました。
清志郎がいなくなったあとも、その表現は私の中で、もう一度動き出したのだと思います。
表現が時間を越えて、誰かの「今」に触れる。
そう考えると、表現というものは不思議です。
映画を観終わって、こんなことを考えました。
「今という時間には終わりがあるけれど、純粋な衝動から生まれた表現は、繋がっていくのかな。」
そして、自分自身も、
そのとき肌で感じたものを、今の感覚で素直に表現していきたい。
改めて、そんなふうに思いました。
